ぼくには、叶えたい夢がある。夢は、ゴンズイという、うっかり触るととても危い毒のある魚がくれた出会いから生まれた。

 ぼくは釣り好きの小学五年生。地魚料理の職人をしている父ちゃんのように、美しい魚料理を作れるようになりたいと、ずっと考えていた。そこで暇さえあれば近くの漁港の隅で魚を釣り、刺身や開きを作る練習をした。
 漁港ではキス、ハゼ、サバ、小アジ、クロダイ、タコなどがよく釣れた。そのため休日には、たくさんの釣り人が集まった。
 だが、そこではたまにゴンズイが釣れた。ゴンズイはナマズのような形をしていて、大きな口の両脇からは立派な髭が生えている。ゴンズイを知らない人は、そのかわいらしい見た目から、それが危険な毒針をもつ魚だなんて、思いもしない。でもひとたびその針に刺されると、ひどい痛みに襲われる。痛みは長いこと続き、時には命にかかわることもある。そのため近所の人たちはみんな、いつか、ゴンズイに刺される人が出るのではないかと心配していた。
 そんなある日、ゴンズイの恐怖は人知れず、その悲劇を自分の力で避けることのできない少年へと忍び寄っていた。

 ある晴れた秋の日の夕方、ぼくはいつもの通り、釣りをしていた。近くでは何人かの釣り人がリール竿で仕掛けを遠くへ投げていた。そこへ母親に手を引かれ、反対の手に白い杖を持った少年がやって来た。そして、ぼくから少し離れた、周りに釣り人のいない場所で釣りの準備を始めた。母親が、背負っていたリュックから折りたたみ椅子を出し、少年を座らせた。
「椅子から動く時にはお母さんに声をかけてね。海に落ちたら大変だから。」
よく通る母親の声が、ぼくのところまで聞こえてきた。ぼくは、少年の目が見えていないことに気づき、呆気に取られていた。周囲の釣り人も皆、少年の目が見えないことに気付いたが、誰も親子に話しかけなかった。

 少年は座ったまま、母親の手を借りずに竿にリールをセットし、手早く釣りの準備をしていく。竿のガイドに糸を通し、その先に十センチおきに枝のように三本の針がある「胴づき」とよばれる仕掛けを結んだ。仕掛けの一番下には、大粒のルビーのようなオモリが夕陽を受けてきらきらと赤く輝いていた。
 ぼくはこの仕掛けを見たことがある。父ちゃんの友達の漁師さんが見せてくれた道具箱に入っていたものと同じだ。それにしても何を釣る仕掛けだろう。
 ぼくは少年に話しかけたくなったが、邪魔をしてはいけないと、思いとどまった。
 少年は遠くを眺めるようにして、手元には顔も向けずに、流れるような手つきで餌をつけていく。そしてリールから糸が出るようにして、岸から二メートルも離れていない足元に仕掛けを落とし込んだ。
 漁港はかなり大きな船が停泊できるよう、すぐ足下でも十メートル以上の深さがあった。ぼくは足元にも何かしらの魚がいるだろうと思った。その時ふと、少年の竿にゴンズイがかからなければいいがと、心配になった。

 しばらくして少年の竿の糸の出が止まった。海底に仕掛けが着いたのだ。少年は右手でリールのハンドルを四回巻き、それから左手の竿先を上下に細かくゆすりながら少しずつ糸を出しては、右手のハンドルで糸を巻き取ることを繰り返した。

 突然、少年は左手首を素早くひねって竿を立てた。ところが竿は弧を描き、一瞬動きを止め、それからブルンブルンブルンブルンブルン……と細かく力強くゆれ続けた。
 母親がすかさず、立ち上がる少年に声をかけ、少年が海に落ちないよう寄り添った。
 少年は落ち着いて竿をさばき、二十五センチほどの立派なカワハギを、救い網も使わずに釣り上げてしまった。カワハギはそのまま針からはずれ、バタバタと背びれで地面をたたいて暴れた。少年は両手で地面をさぐってカワハギをつかみ、そのままバケツに入れた。そしてまた、仕掛けを海にしずめるのだった。

 ぼくは、少年の足下でカワハギが釣れたことが信じられなかった。また、その手品のような竿さばきは、とても目の見えない人の動きとは思えなかった。ぼくは前よりも強く少年と話したいと思ったが、話しかける勇気がなかった。そしてただ、その釣りを呆然と眺めるばかりだった。
 少年は次々に、立派なカワハギを5匹も釣り上げた。しかし、その後はぱったりと釣れなくなり、時間だけが流れていった。

 しばらくして少年は疲れてきたのか、竿を動かす手がぱたりと止まった。
 突然、その竿先がグイグイ…グイグイ…と海に引き込まれた。少年は慌てて竿を握り直し、リールのハンドルに手をかけた。
 ぼくは竿先の動きを見て凍り付いた。それはそこで毎日釣りをしているぼくだからこそ見分けられる動きだった。心臓がドクンドクンと早鐘のように打ち始めた。ゴンズイだ。何とかしなければ大変だ。でも、声を出そうにも、声が出ない。動こうにも、金しばりのように動けない。体がかあっと熱くなり、脂汗が出てきた。その上おしっこも漏れそうだ。どうしよう……。気ばかり焦って何もできない自分がいやになった。せめて心の中で「誰か、どうにかして!」と叫んだ。

 その時だ。ぼくの後ろを全速力で駆け抜ける足音がして、大声が漁港全体にとどろいた。
「動かないで、動いたら危ない!」
その場の全てが固まった。

 それは父ちゃんだった。父ちゃんは少年から竿を預かり、リールを巻き始めた。金しばりの解けたぼくは、釣り道具の入ったリュックを背負い、父ちゃんと少年に走り寄った。
 父ちゃんは二十五センチほどの立派なゴンズイを釣りあげていた。そしてゴンズイの大きな口を左手の親指でこじ開けた。それから外側の人差し指と中指、口の中の親指で、あごの肉をしっかりとつまみ、ゴンズイをぶら下げ、釣り針をはずしながら言った。
「辰夫、ゴンズイの毒針切っちゃって。」
ぼくは震える手でリュックから料理バサミを出し、父ちゃんがぶら下げているゴンズイの三本ある毒針を注意深く切り落とした。
「これで大丈夫。おじさんの息子が毒針切っちゃったから。それにしてもゴンズイにやられなくてよかった。こいつには胸ビレと背ビレに強くて鋭い毒針があって、それに刺されたら大変だった。」
父ちゃんは左手でぶら下げたゴンズイを右手でなで回しながら、笑顔になって続けた。
「毒針を切っちゃえば高級食材。家に帰っておふくろさんに焼いてもらって食べてみな。びっくりするほどうまいから。」
少年は少しだけ笑顔になって言った。
「ありがとうございました。ぼくの竿に、触ると危ない魚がかかるなんて、思いませんでした。ゴンズイ、おいしくいただきます。」
父ちゃんはほおっと意外そうな顔をすると、
「お、おにいちゃん偉いねえ、きちんとお礼が言えて。」
それから父ちゃんは、顔を真っ赤にしてうつむくぼくの肩を、軽くぽんぽんとたたき、笑いながら言った。
「そう恥ずかしがるなって。今は思いを大切にできればそれでいい。」

 夕焼け色が東の空にほんのり残る中、ぼくと父ちゃんは家路についた。ぼくは父ちゃんに「思い」って何か、きいてみた。父ちゃんは笑いながら、
「何だと思う?自分で考えてみな。答えは一つじゃないから、家に帰ったら思いついたこと、紙に書き出してみな。辰夫の人生の海に立派なタイが泳ぎ始めるから。そしたらほら、プロの釣り師の腕の見せ所かな。フフフ。」

 家に帰ったぼくは、紙を前にして考え込んでしまった。「思い」の意味合いを言葉でまとめるのは難しそうだ。そこでとりあえず、今日思ったことを書くことにした。

・目が見えなくて釣りをするってすごい!
・あのおにいちゃんと話したい。
・いざって時に動けなくて情けないし悔しい。
・勇気がほしい。
・父ちゃんのような大人になり たい
・きちんとお礼を言えるようになり たい
・もう一度あのおにいちゃんにあい タイ
・誰でも楽しめる釣り場にし タイ

 書いているうちにぼくはまたしても父ちゃんのすごさを知った。父ちゃんはほんの短い言葉で、未来へと広がるぼくの心の海に、たくさんのタイを泳がせてしまった。「これは釣らねば」と思った瞬間、ぼくには、将来の夢が少しずつ形になって見えてきた。
 いつか必ず父ちゃんに負けない地魚料理の職人になる。店は漁港の目の前に構え、「ゴンズイ亭」にしよう。ユルキャラ風で愛嬌たっぷりのゴンズイを中心に、この辺で釣れる魚をたくさん描いた大きな看板をかけよう。そして目立つように〈ゴンズイは毒のある魚ですが、とてもおいしい魚です。ゴンズイが釣れてお困りの方はすぐにお声かけ下さい。〉と書いておこう。
 ぼくは、あの少年と母親が店に来る日を思い浮かべ、笑顔になった。