好きな作家を問われ,真っ先に出て来るのが嵐山光三郎氏の名である。嵐山氏はかつて,「月刊太陽」という有名な雑誌の編集長を勤めていた。その雑誌が発行されていた頃,私はまだ目が見えていた。鮮やかな写真に彩られた紙面に並ぶ活字を追いながら,世界の広さ,大自然の不思議に胸躍らせた。

 活字が読めなくなり,約20年の年月を隔て,サピエ図書館で嵐山氏の著作と再会した。懐かしさのあまり,その膨大な著作を片っ端から読みあさった。そして「カワハギ万歳!」という本に出会った。
 嵐山氏はある日,スポーツ新聞の記者で釣り欄を担当する友人から,釣りたてのカワハギをいただく。友人はその場でカワハギの薄作りの肝和えをこしらえ,嵐山氏に振舞う。
 嵐山氏はそれを口にして,その旨さに雷に打たれたような衝撃を覚えた。以来,その味が忘れられず,カワハギ釣りに凝ってしまい,とどのつまりは本まで書いてしまったのである。
 その本を読んだ私は,無性にカワハギの薄作りの肝和えが食べたくなった。しかしカワハギの肝は,釣ったその日でなければ味わうことのできない食材である。それならばと思い立ち,カワハギを釣りに三浦半島の三崎口にある船宿,義兵衛丸に足を運んだ。そしてその釣りにまんまとはまった。
 カワハギは船の上からリール竿を使って,水深20メートルから50メートルくらいの海の底近くに仕掛けを落として釣る。アジ釣りに比べるとずいぶん単純な仕掛けを使うため,その扱いはずいぶん楽である。故にアジ釣りよりもさらに盲人向きの釣りといえる。
 しかしそんなカワハギを釣り上げるのは,至難の業である。アジはエサに向かって猛スピードで突っ込んで来て,勝手に針にかかる。それに対してカワハギは,水の中をヘリコプターのようにホバリングしながら,浮遊するエサに寄り添うように自分も上下して,その小さなくちばしでエサをついばんでしまう。竿を動かさずに魚信を待っても,手元にはカワハギがエサをついばんだ感覚は全く伝わって来ないのだ。
 いつの間にかエサは食べつくされ,釣り人はそのことに気付かずに空針を沈めっ放しにしてしまい,貴重な釣り時間を無駄に費やしていることが,よくある。
 そんなカワハギを仕留めるためには,竿をうまく操って,カワハギの目の前でエサを上手に動かすことが大切である。
 カワハギはとても好奇心の強い魚なので,まずは竿をを大きく動かしながら,エサの周りにカワハギを寄せる。頃合を見て,上下に細かく竿を動かしながらゆっくりリールのハンドルを回し,糸を巻き取る。エサが底から3メートルくらいのところまで巻き上がったら,次は竿を上下に細かく動かしたまま,徐々に糸を出し,エサを沈めていく。
 カワハギは何とかエサをついばもうと焦ってくる。手元で一瞬エサの動きを止めてやると,カワハギはこの機会を逃してなるものかとばかりに,エサにアタックしてくる。
 チャンスは一瞬である。ビクン!エサをついばむ時間は約0.2秒。そのビクン!に合わせて竿を上げることが出来たとき,カワハギのくちばしの先に針がかかるのだ。
 ここで慌ててはいけない。針はあくまで堅くて鋭いくちばしにかかっているのだ。ちょっと焦って糸を巻いても,うっかり手を止めてしまって糸が弛んでも,針はぽろりと外れてしまう。針が口の中にかかっている場合,剃刀の刃のようなくちばしに糸が接していることになるため,慎重に上げてこないと,すぐに糸が切れてしまう。
 カワハギ釣りの醍醐味は,簡単に釣れない魚を釣り上げるまでの試行錯誤にある。手元には確かに,カワハギがエサをついばむ感覚が伝わってくる。しかし針にかからない。針にかかってもいつの間にか逃げてしまう。手元に仕掛けが戻ってきたら,針が取られている。悔しい,悔しい,悔しい……。寸暇を惜しんでカリカリカリカリ,いつの間にか熱くなっている。それ故に1匹のカワハギを釣り上げた時の感動は大きい。
 これだけ面白いカワハギ釣りだが,諸事情により私は,1シーズンに2度か3度しか足を運ぶことができない。しかし憂ううるなかれである。カワハギ釣りにはまってくると,数少ないチャンスのためのイメージトレーニングと仕掛けを工夫することが楽しくなってくる。言い換えれば,暇さえあれば,いつでもどこでもできる楽しみを得ることになるのだ。日常生活の中で,自然相手の知恵比べに勝つ手立てをシュミレーションし始めると,いつの間にか静かに全身の感覚が研ぎ澄まされていくことを実感できる。私たち人間が生きるということの本質は,ここにあるのではないかと感じる今日この頃である。